ー中村桂子のつぶやきー

<緑に支えられている私たち人間>

《中村桂子のつぶやき 第一回》「自己紹介」

 

「富士山が見える!」 25年前、ここに暮らし始めたきっかけはこれで、その時は国分寺崖線についての知識はまったくありませんでした。もちろん、緑に囲まれての生活は楽しく、とくに夏の日の仕事帰り、成城学園前駅から歩いて7分ほど、家につながる路地に入ると吹いてくる風が爽やかになって体感温度が下がる時には、緑の力の素晴らしさを感じてきました。一年、二年と過ぎるうちに、野川との関わり、国分寺から等々力渓谷へとつながる地下水系など、崖線の持つさまざまな側面が見えてきて、この場所の重要性が分かってきました。

 その頃、二軒先でマンション建設が始まり、更地になったところに古墳時代の横穴が現れるのを眼にし、奥に壁画があることを知った時は、なんと面白い場所なんだろうとわくわくしました。わが家の下にも横穴があるはずだと思い、歴史とのつながりを感じながら暮らす喜びを味わっています。

 地震研究の権威に、古代人が暮らしていた場所は地震に強いんですよと教えていただき、よかったと思っています。昔の人は、私たちよりも自然についての知識が豊富だったに違いありません。この地に暮らしていた人々の日々についても学びたいと思っています。

 たまたま縁あって、歴史と自然を実感できる国分寺崖線に暮らす一人として、ここを大事にしていらした方々のお仲間に入れていただいたのはありがたいことです。

 これからの社会では、「緑の持つ意味」がますます大きくなっていくに違いありません。長い間、「人間は生きものであり、自然の一部である」という事実を基本に置く「生命誌」の視点から勉強を続けてきた者として、「緑に支えられている私たち人間」というテーマで小さなコラムを書いてみたいと思い立ちました。どんなことが書けるか、ちゃんと続けられるか、怪しいところもありますが、よろしくお願いいたします。


《中村桂子のつぶやき 第二回》「上から目線でなく、中から目線で」

 

 第一回目は崖線住人としての自己紹介でした。第二回目からは「生命誌」という私の専門を通して、「緑について考えること」を少しずつ書いていきたいと思います。

 半世紀ほどの間、考えてきたことの基本は「人間は生きものであり、自然の一部である」という、とんでもなくあたりまえのことです。なぜこんなあたりまえのことを考え続けているのか、基本を表現した絵図(生命誌絵巻)で説明します。

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 大切なのは次の四つです。まず扇の天に描いてあるさまざまな生きもの。「生物多様性」と言われますが、とにかくいろいろなものがいます。名前がついているものだけで180万種。あとで触れますが、実際には数千万種いるとされます。名前のついているのはほんの数%なのですから、自然については知らないことがほとんどだと思い知らされます。知られていない種のほとんどは、熱帯雨林、つまり森の中にいます。緑の大切さの基本が多様な生きものを支えているところにあることは明らかです。ところで、これほど多様な生きものも、すべてが「DNAを遺伝子とする細胞」でできていることはもう誰もが知っている事実ですね。たまたまそうなったとは考えにくく、調べた結果祖先は一つとわかりました。地球上最初の細胞がいつ、どこで生まれたかはまだ解明されていませんが、38億年前の海には細胞がいたと考えられますので、扇の要は38億年前。そこに祖先細胞がいます。扇の天に描かれた生きもの(もちろん描いてない生きものもすべて)は要にある祖先細胞から進化してきたのです。

 

 生きものすべての祖先は一つ。これが二つ目の事実です。これは「どの生きものも38億年という長い歴史あっての存在である仲間」であることを示しており、生きものに高等とか下等とかいう考え方はあてはまりません。アリとライオンとを比べてどちらが優れているかと考えても意味がありません。アリはアリ、ライオンはライオンとして見事に生きている。これが生きものの世界です。人間も生きもの、一人一人がその人らしく生きているのであって比べても意味がない。生命誌の大事なメッセージです。絵巻から読み取る三つ目はこれです。

 

 そして四つ目。「人間も扇の中にいる生きものの一つ」ということです。あたりまえですが、今の社会では人間はこの扇の外、しかも上の方にいて、他の生きものたちを見下ろしてはいないでしょうか。「地球に優しく」という言葉はすばらしく聞こえますが、実はこの言い方は他の生きものたち、つまり自然を上から見ています。人間だけ偉そうな「上から目線」です。実際は、私たち人間は生きものたちの中にいて、「中から目線」で多様性を見ていかなければ地球上で上手に生きることはできません。さまざまな生きもののいる地球に優しくしていただけるよう、こちらも優しくというのが実態でしょう。

緑について考える出発点は、ここに挙げた四つの事実を踏まえた「中から目線」の共有にしたいと思っています。

いかがでしょうか。


《中村桂子のつぶやき 第三回》「奇跡とも言える光合成の始まり」

 

 38億年前に海で生まれた細胞が生命の始まりであり、以来生きものは途切れることなく存在し続け、最後に、と言っても20万年ほど前に、私たちの直接の祖先が誕生したという歴史の中に私たちはいます。

 まわりに緑の樹木があり、季節ごとに美しい花が咲く道をワンちゃんと一緒にお散歩するという日々をあたりまえのこととして過ごしていらっしゃると思いますが、生きものの歴史(生命誌)を見てきた私にとっては、これはある種の“奇跡”です。

科学者が奇跡などと言う言葉を使うと叱られそうですが、ここでの”奇跡“は、”こんなことがよくぞ起きたものだと驚くことが起きた“という意味です。生きものの歴史ではそういうことが何度もありました。そもそも

地球上に生きものが生まれたことが奇跡ですよね

 生きものは、食べものがなければ生きていけません。生きるにはエネルギーが必要であり、食べものはエネルギーの素です。最初に生まれた細胞は、海の中にある有機物を利用し、発酵によってエネルギーをつくり出していました。けれども海の中にある物質には限りがあります。このやり方ではいつか食べものがなくなり、生きものは消えるしかありません。ところがそこで、太陽光のエネルギーを利用して分子をつくりエネルギーを生み出すバクテリアが生まれたのです。よくぞこんなことができますねと驚く能力です。30億年以上前とされます。細かなことは省きますが、その後光のエネルギーの使い方がだんだん上手になり、理科の時間に習う光合成ができるバクテリアが生まれます。シアノバクテリア(藍色細菌)と言います。これが後に植物の葉緑体につながります。

              太陽光

               ↓

H2O(水)+CO2(二酸化炭素)── 炭素化合物+O2(酸素)+エネルギー

 

 昔の理科のことなど忘れていらっしゃるかも知れませんが、この式を改めて眺めて下さい。大気の中にたっぷりあるCO2(二酸化炭素)とこれまたどこにでもあるH2O(水)と光があれば、自分で食べものを作り、生きていくためのエネルギーを手に入れ、自分の体づくりができる。まさに自立であり、自律の道ができたのです。もしこの能力を手にしなかったら、生きものの世界が続くことはなかったでしょうし、もちろん私たち人間も登場するはずはありません。

 光合成といえば、反射的に植物を思い浮かべますし、もちろんそれは大事なことなのですが、それ以前に、もしこの能力が生まれなければ私たちは存在しないのだということに気づいていただきたいのです。光合成は、生きものを生きものとして存在させる基本的なはたらきであることを忘れてはなりません。よくぞ起きてくれた奇跡と言ってよいと思うのです。緑の葉っぱを見ながらそんなことを考えて下さるとありがたく思います。

 次回には、ちょっと寄り道をします。

 


《中村桂子のつぶやき 第四回》

「ちょっと寄り道──人工芝」

 

 雑誌を読んでいたら思いがけない事実が書いてありましたので、ちょっと寄り道をして、緑を巡ってもいろいろな問題があるということを考えます。周囲に緑があると落ち着くというのが普通だと思うのですが、最近は、落ち葉が面倒だからと樹木を邪魔扱いする人も出てきました。そのような風潮の中で、増えているのが人工芝です。

 ところで、雑誌に載っていたのは人工芝とゴミの話です。ゴミ問題を考える中で、最近海洋プラスチックが話題になっているのはご存知だと思います。廃棄物は社会・生活のさまざまな側面を反映するものであり、時代と共に量だけでなく種類も変化してきています。最近話題になっているものがいくつかあり、温暖化ガスももちろんその一つです。その他、食品ロスと呼ばれ食べられるのに棄てられてしまう食品が年間600トンとか、役目を終えたロケットや宇宙船が宇宙ゴミとなり、小さなものを入れると50万個もあるとか、悩ましいテーマが次々出てきています。その一つが、水中のマイクロプラスチックなのです。

 マイクロプラスチックとは、直径5㎜未満のプラスチック断片や粒子をさし、その元はさまざまです。思いがけない事実とは、

我が国の河川や港湾で調べられたマイクロプラスチックの20%が人工芝だったということです。多いとお思いになりませんか。

私はちょっとびっくりしました。

 校庭に人工芝を敷こうという話は、よいことと受け止められているのではないでしょうか。私が小学生の頃の校庭は土でしたが、だんだんコンクリートが増えていきました。泥だらけになる土か、転ぶと痛いコンクリートか。サッカーが盛んになり、きれいな芝の上でボールを蹴る姿がカッコよく走りやすそうだと皆が思うようになりました。校庭も芝にしたらすばらしかろう。そんな考え方が出て、実際に試みた学校もあります。でも芝はヨーロッパの草で、日本の風土には合いませんからきれいな緑にしておこうと思ったら手入れが大変ですよね。しかもゴルフ場の例でわかるように、頻繁に肥料や薬をまかなければ美しい芝は保てません。土や水の汚染など問題山積です。そこで思いついたのが人工芝です。管理が簡単で安上がり。生きものの眼で考えれば、日本の草が生える原っぱにすればよいはずで、私はそれが答えだと思うのですが、現代社会では人工芝が選ばれます。子どもたちのために人工芝をという社会貢献運動も盛んになりました。けれどもその破片が水路から流出し、マイクロプラスチックの20%を占めると聞くと、やはり答えは原っぱではありませんかと思います。

 私が子供の頃遊んだ原っぱを思い起こさせてくれる好きなところは、昭和記念公園です。生きものの本質を理解していらした昭和天皇を記念しようとしたらこうなったのでしょう。広い原っぱで遊ぶ子どもたちは元気で可愛く、見ていて厭きません。サッカー場やゴルフ場は原っぱとはいきませんでしょうけれど。

緑の問題はこういうところまで目配りが必要だと思い、寄り道をしました。


*2021年6月5日「崖線みどりの絆・せたがや」会長の中村桂子のコラムが始まりました。「緑に支えられている私たち人間」をテーマに、不定期に掲載いたします。どうぞお楽しみに。